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天塩の歴史
遺跡と地名が物語る天塩の往古
 日本海に注ぐ天塩川の下流域一帯の地は、川口遺跡をはじめいくつもの埋蔵遺跡が確認されて、先史時代(縄文文化期=紀元前5000年〜続縄文文化期〜擦文文化期とオホーツク文化期〜アイヌ文化期)に既に安住の地として、古代民族の栄枯があったことが明らかになっています。
 海や川・山野での狩漁で自給自足の生活を営んでいた古代民族にとって、日本海・天塩川・後背の山野は天恵の資源豊かな自然界であり、必要以上に乱獲しなかったことを思えば、それは無限の宝庫であったわけです。
 古代民族の文化遺産の中で特に注目されるのがアイヌ語地名で、町名はもちろん、六志内(ろくしない)・振老(ふらおい)・産士(うぶし)・雄信内(おのぶない)・コクネップ・ペンケビラ・タツネウシ・サラキシ・キトウシユナイ・トコツナイ・ルークシユナイ・サツカイシなど、地名、川名に数多くのアイヌ語またはアイヌ語からの転訛語が生きており、それらの地名にはアイヌの生活と自然界・生物界・宗教観のかかわりが秘められていて、地名を解釈すれば往時の自然と生活文化の一端が偲(しの)ばれるのです。

地歩を固めた天塩アイヌ
 アイヌが確かな息吹(いぶき)で蝦夷地(北海道)全域に根を張った近世アイヌ期に、天塩川下流域一帯をウライ(漁猟圏)としていたアイヌは、日高・石狩などのアイヌ社会ほどの勢力(集団)ではなかったものの、圏域にコタン(集落)を形成し、協同して貝類・鮭・鱒の漁、熊・鹿・兎・狐の狩、山菜・果実・樹皮の採取による平和な生活を営んでいたのです。
 また、一方で、上川アイヌとは天塩川を水路として海の幸と山の幸を交易して共存共栄を図り、さらには海路でサハリン(樺太)へ長駆して北方民族との交易、あるいは南下して沿岸アイヌとの交易も行って生活用品や利器・貴重品を入手するなど、善隣友好と積極交易の進取的な一面もあったと伝えられています。

幕藩時代の場所開設で新時代
 確たる統治権の無かった蝦夷地に支配が及ぶようになったのは、慶長9年(1604)に松前藩が成立してからのことであるが、初期は全蝦夷地を支配したのではなく、天塩地方は支配の及ばないアイヌの自由な天塩が続き、既に地歩を固めつつあった天塩アイヌは、さらに自主邁進(まいしん)の気概に満ちて、サハリンを通じて大陸との交易を図るとともに、和人が入来する松前にも水路を伸ばして交易し、貴重な大陸品や本州品を入手するなど、広域交易の展開により、石狩以北では最も注目される存在となり、天塩の地は要衝の感を呈するまでになったのです。  
 財政基盤としての米の生産(年貢)が皆無の松前藩が地藩の禄高に相当する策として、交易権を内容とする場所制度を施行したことにより、海岸沿いの要地にアイヌとの交易場所が設けられ、藩あるいは家臣の知行地(俸禄地)として運営されることになり、既に要衝の感があった天塩にも慶長年間(〜1615)に天塩場所が開設されました。  
 知行主がアイヌの望む米・酒・煙草(たばこ)・鉄器などを積んで年に1、2度来航し、その見返りに獣皮・熊胆・鹿角・鮭鱒(干物、のち塩物も)などを収納して、松前で内地商人に売捌いて収益としたのであるが、当初の交易は全く対等であり、天塩アイヌも意欲的であったと伝えられています。また、交易のための運上屋(交易所)や番所が設けられ、交易役人や船人足の入来という新しい時代の流れが、天塩にも、もたらされたのでした。

請負場所とアイヌの衰運
 平穏に見えた場所交易に異変が生じたのは、シャクシャインの乱(寛文9年=1669)が鎮圧された後、藩がアイヌの従属(服従)を前提として交易することになってからで、対等の交易に政治的支配が加わることになったのが第1。さらに、交易が拡大するにつれて、仕込み・航海・売捌きなどの資本と労役の面から武士の商法では取り仕切りが困難になったため、商人に委託(請負)して相当の運上金を収納する方途が講じられるようになり、いわゆる場所請負制が天塩場所でも天明6年(1786)から、紀伊国商人の栖原家を請負人として実施されたのが第2の要因となってのことでした。  
 請負商人は交易量の増大による自身の収益増のため、藩の威光を背にしてアイヌの自主的な産物に止まらず、量産可能な水産物に眼を向けて、アイヌの漁労増進を強要するようになった結果、対等交易がアイヌの労働に即して賃金・物品を支給する形に変わり、これを漁場雇と称したのです。加えて悪徳のはびこりがあって、文字や計数の無いアイヌに対して低賃金・支給物品の量目のごまかしなどが横行し、さらには拘束的な強制労働で、足腰の立つ者はことごとく駆(か)り出し、中には遠く離島(天売・焼尻)への出稼ぎ、冬期間も来春の着業準備の使役にされた。この間、不穏なロシアの脅威から北辺警護のため幕府が蝦夷地を直轄すること再度、天塩は安政2年(1855)から秋田藩、同6年からは庄内藩の支配下に置かれ、治安のためアイヌの撫育同化=差別・不正の除去にもあたることになったのであるが、安政4年に箱館奉行所が、「最もアイヌ酷使の甚だしい場所」として請負商人に論書が発せられた天塩場所の現実は、容易に改まることなく幕末を迎え、生活経済の悪化、何年も帰らぬ出稼ぎによる婚期の逸失と懐妊の減少、悪病と老衰による死亡などにより、アイヌは衰運の一途をたどったのです。
庄内藩支配当時の天塩の風景(山形県鶴岡市 原秀氏所蔵)

明治維新で天塩村が誕生
半世紀の発展で町制施行
 北海道拓殖は北辺警備(対ロシア)を背景に、農業開拓による植民を第一義として、道南から道東・道北へと進められ、天塩の原野が緒についたのは、道庁の植民地選定事業(明治24年〜)が行われてからで、最初の賃下告示は明治31年12月23日の四原野(オヌプナイ、ウブシ、サラキシ、天塩川口)の1,263・3万坪、以後も区画増があって、そこに野向・武田・天塩・躬行社・山内ほかの小作農場や、越中・利尻・岩手・山形・宮城からの団体入植が鍬をおろしたのです。
 天塩の原野は当初から「耕耘(こううん)適当ノ地乏シク泥炭地多キ」(植民地選定報文)で、また烈風・冷涼に耐えてきた天然樹木が多く(6割)、不安を背負っての「農作ヨリモ木材ニテ生計ヲ立テントスル者多シ、漸ク坪ヲ経テ開墾ノ目的ニテ……、然レ共気候風土作物ノ成育ニ順応ナラズ」(川口小学校郷土誌)に始まり、その後も、適地適作を求めての試行錯誤、病虫害との闘い、冷害(特に大正2年)の痛苦という苦難の時が流れ、第一次世界大戦(大正3〜7年)で一過性の好況があったものの、戦後は反動不況に泣き、さらに昭和6年からは連年の冷害凶作が追い打ちをかけ、しかし天塩農民は挫けなかった。そこから発想されたのが有畜混同農業の道だったのです。

天塩を支えた伝統の水産業
 明治維新とともに、明治2年に場所制度が廃止され(暫定措置として9年まで漁場持制度)、日本海と天塩川の漁場が開放され、当初こそ着業資本や輸送・販路の関係で低迷していたが、やがて小樽などの商人・資本漁業家の着目と地元漁家の目覚めで、明治20年代からは請負場所(幣はともかくとして)以来の伝統ともいえる鰊漁・鮭鱒が復活し、それに特産の蜆(しじみ)が加わり、さらに大正年代にかけて塩蔵・氷冷の手だてや輸送事情も発達し、春の鰊漁・秋の鮭漁の繁忙期には多くのヤン衆(漁夫)が入来して、市街地は漁場景気で盛り上がり、回避漁族の周期性や海岸気象の異変などでときには不漁に苦しんだこともあったが、漁業は不動の基幹産業として天塩の発展を支え続けたのです。
ニシンの襲来で賑わう天塩港(昭和初期)

天塩木材同業組合
一時代を築いた天塩木材
 「原野一般ニ富ミ建築及薪炭ノ用自(おのずか)ラ足レリ」(明治24年=植民地選定報文)、あるいは「全道中尤(もっと)も材木に富み沿海の山脉(脈)は蝦夷松交生し、天塩川に沿ふ(う)て起伏せる諸山及び原野より産出する木材其(その)幾許(ばく)なるや量(はか)り難く……到る所蝦夷松の大樹あらざるはなく天塩産物中の第一を占むるは木材ならん」(明治29年=小樽新聞)と書かれた天塩の原野ゆえに、農業開拓もまずは樹林伐出からという状況におかれていました。  
 その天然の大資源に本格的な開発の手が及んだのは明治30年を迎えるころからで、「明治30年代後半から40年代を天塩材時代と呼ばれた」(日本産業史大系)というほどの隆盛を示し、水産物を抜いて移輸出1位の座を占めていたのです。当時の木材は本州・朝鮮・中国・小樽への移輸出材が主で、明治40年ごろからは王子製紙工場の苫小牧林業もかかわるようになり、天塩木材(株)・躬行社・天塩製材所・北海道木材(株)・滝木材店などの林産企業が相次いで進出して冬山造材・天塩川流送を行い、天塩港に木材積取船が船足繁く来航した。この木材景気で急激に人口が増え、商業の繁昌を招き、「天塩市街ハ今ヤ戸六百余、口(人口)三千余ニ達シ木材事業隆盛ノ為メ事業家、商人、其(その)他労働者ノ来往スルモノ約壱千余人ヲ以テ算シ、毎年五月ヨリ十月マデ船ノ輻輳多ク……」(明治45年)と綴られています。  
 この木材景気は大正年代中期から冷え込み、天塩の経済は低迷期に入ったが、それは第一に村内の資源枯れ、第二に天塩線鉄道(現宗谷線)の開通(大正10年代)により天塩港への奥地からの集材が消えたことに基因しており、脱木材への模索が始まったのです。

海路依存から鉄道への悲願
 明治32年に小樽〜天塩間に道庁の補助による定期船が就航し(命令航路)、交通・流通の動脈となったが、荒天の冬の欠航で生活を脅かされることが少なくなったので、内陸の鉄道敷設が進につれて、鉄道への切なる願望が高まり、明治42年以来実現に心血を注ぎ、悲願27年の昭和10年6月30日に天塩線(幌延〜天塩)が開通。この間、名寄〜稚内間の敷設について天塩経由を強調したものの、天北線・宗谷線とも悲願叶わず涙したという経緯があったので、開通の喜びは例えようもなく大きかったののです。  
 鉄道の開通により小樽航路は役目を終え、以来、小樽との人的・経済的結びつきは、次第に旭川へ移るとともに、町の生産額の増大および文化の向上など、町勢基盤の充実が進み、近代化が促進されました。
幌延から一番列車が到着(昭和10年)

戦乱と敗戦の苦難を越えた
いま21世紀にはばたく天塩
 昭和10年代に入ってからの農業の復興、漁業の順風、加えて鉄道の開通と、町勢と町民の希望がふくらんだ矢先の日中戦争の勃発(昭和12年)、そして太平洋戦争へと(同16年)突入し、国家総動員法のもと、町政は大政翼賛体制一色で固められ、生産と消費に徹底した統制下に置かれて、農業は時局作物の指定による生産増強が唱導され、林業は特需のための乱伐強行が進められ、漁労は敵盤の来襲におびえた。しかも相次ぐ青壮年の応召で中核生産力がそがれて、小学校高学年は勤労動員となった。ついには食糧難が深刻化、生活物資も底をつく状況となって、「欲しがりません勝つまでは」の掛け声も空しく、多くの戦没者を数えて、昭和20年8月15日に敗戦という終戦を迎えました。  
 敗戦という終戦で占領統治下に置かれ、しかも疲弊し切った現実の中で、復興再生の道程は戦時中に続く厳しい諸相が町内のあちこちで見られ、一方で民主改革の矢継ぎ早な進行で戸惑うなど、出血供出による食糧危機の克服、戦後開拓者や引継者の受け入れ、六・三制義務教育の施行、自治体消防の創設等々、いくつものハードルを越えて、新しい天塩町の基礎づくりが進められ、やがて経済成長の時を迎えたのでした。

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